専長寺の歴史と歴代住職

【初代】慈成院釈圓信 梅原法親王

当山の資料によると、寛喜元年(1229年)(承元3年1209年説あり)承久の乱により流罪に処された後鳥羽上皇の皇子・圓信が、越中国砺波郡山田荘梅原里(南砺市梅原)に真言宗寺院・大法(宝)寺を開基したことに始まる。「世人梅原法親王と称す」とある。後に浄土真宗の祖・親鸞に深く帰依し、真宗へ改宗した。現在その跡地には以速寺があり、他にも梅原の地に由来する寺院は複数存在する。

代は受け継がれ、寛正4年(1463年)8代・道願は、梅原里を退いて尾張名古屋へ移った。同年、京大谷にて本願寺8代門主・蓮如に謁見し、蓮如真筆・六字名号双幅(現存)を賜った。当山中興の祖。

10代・尊乗は、天下争乱を受けて永正6年(1509年)飛騨古川へ、永正17年(1520年)先祖所縁の地・越中へ移った。越中各地(富山八ケ山説・滑川上島説)で一宇を建立しつつも、天下争乱が収まらず居を転々とし、大永2年(1522年)魚津市鉢に落ち着いた。 当時の魚津市松倉周辺は、越中三大山城・松倉城や、産出量豊富な金山があり、人口約3万人が暮らしたといわれ、寺も多くあった。現在、鉢の当山跡地には門徒衆住居があり、松倉城下町であった鹿熊、金山谷・北山・蓑輪等の地域には多くの門徒衆がある。 尊乗には子がいなかったのか、天文3年(1534年)初代・圓信以来の血統が絶えた。

天文19年(1550年)門徒に望まれ入寺した11代・顕乗は、畠山基國の子で僧侶となった持専寺開基・信了(現常楽寺)の子と伝わる。武将の血統を引く僧であり、持専寺をはじめ越中一向一揆の旗頭であった伏木・勝興寺へ居して以来、勝興寺との関係が深いものとなった。一揆を統率するリーダー格の1人であったと考えられる。織田信長と本願寺顕如の戦「石山合戦」では、大坂・石山本願寺へ海路にて2度に渡り、兵糧米・計800石を送って支援した。その功績で、本願寺11代・顕如より「光佐殿矢文御書」や「顕」の字を賜り、賢乗改め顕乗と号した。後に、その威名を恐れた何者かによって毒殺されている。

上記のことから、顕乗は自坊を空けがちになり、石山合戦前の永禄9年(1566年)住職を12代・専乗に譲る。専乗は顕乗の子ではなく、井波・瑞泉寺4代・蓮欽の孫・専宗改め専乗と号した。年代を考察するに、顕乗と同時期の人物であるため、代務としての入寺であったと考えられる。
専乗は、寺基を魚津市鉢から滑川市下小泉を経て、永禄10年(1567年)現在の寺家に移転した。永禄13年(1570年)松倉城主・椎名康胤は武田氏に寝返り、上杉軍に攻められ敗北・逃亡していることから、戦に巻き込まれるのを避けたとも考えられる。 経由地となった下小泉の地は、その後もお講等の仏事が継続的に行われた。移転時の寺家周辺は閑散としていたようだが、次第に宿場・商人・寺院等が集まり町を形成し、北前船が寄港する物流の中心となり発展。いつしか賑わう繁華街の傍に立つ寺院となっていった。 専乗の後、顕乗の子13代・法乗が継ぐ。さらに法乗の子・正恵は、生地・専念寺を開基した。

10年にも及んだ石山合戦は信長の勝利に終わり、本願寺は11代・顕如の後、東西に分派した。現在の新川広域圏では、東本願寺(大谷派)教如を支持する寺院が多くあったが、当山は西本願寺(本願寺派)を継いだ准如を支持した。

法乗の弟14代・玄乗は、はじめ持専寺へ入寺したが、後に戻って兄の後を継いだ。 慶長11年(1606年)西本願寺より寺号が下付され、正式に「専長寺」を創立した。持専寺との縁が深かったため、寺号に「専」の字が使われた由縁と考えられる。後に西本願寺より木佛を含む五尊が迎えられたが、西本願寺は元和3年(1617年)火災に見舞われた影響で、木佛の到着が遅延した。それに対する西本願寺の詫状が残る。
妹は婦中・中堂寺へ嫁いだ。

元禄5年(1692年)15代・願乗の時、玄教なる者が小泉門徒と共に当山門下に加わり、以後「発願寺」と号した。

宝永2年(1705年)、16代・智乗の時、門徒衆より梵鐘及び喚鐘の寄付を受ける。梵鐘には、願主住職名と施主門徒名が刻まれている。詳細な記録は無いものの、それに伴って鐘楼堂を建立したと考えられる。これらは後の太平洋戦争時に供出されたが、梵鐘は返り300年余を経た現在も、当時と変わらぬ鐘の音を響かせる。

当時、当山は先祖(顕乗)の所縁により勝興寺の兄弟寺院(末寺)とされた。現在安置する本尊・阿弥陀如来は、勝興寺より譲り受けたものと口伝されており、本尊の寸法は勝興寺のそれとほぼ同一といわれる。詳細は不明で諸説考えられ、更なる調査が必要である。

寛政2年(1790年)20代・自乗の時、大火に遭い堂宇を悉く焼失。「顕如真筆矢文御書」「太閤秀吉陣中守黄金本尊一寸阿弥陀如来像」「菅原道真公真筆御詠歌」珍宝3点が失われる。同6年、堂宇の再建が始まる。

19代・教乗、20代・自乗、21代・義洞は全て18代・現乗の子で、3兄弟が順次継職した。
一度の大火を乗り越え、当時の境内地は現在の約3倍あり、正面東西にそれぞれ門を構え、本堂は十数間もの大伽藍が建てられた。庫裏も相応の規模で、時折宴を開いてはどんなに賑やかにしても外に音が漏れることはなかったと口伝される。 寛政9年(1797年)義洞の時、旭なる者が当山門下に加わり、以後「本行寺」と号した。

22代・義芳は「本殿ヨリ両役ヲ蒙ル録所ヨリ組頭ヲ預ル且ツ空華社会頭ヲ務ム」とあり、様々な役職を務めていたことが窺える。富山城の太鼓橋や御殿を払い下げて、裏川を隔てた境内地へ移築したと口伝され、当時の橋跡の遺構が残る。近年では富山市梅沢町周辺に支坊が存在した可能性も浮上し、当時の繁栄を窺い知る事ができる。義芳は文化人としても知られ、特に和歌を好み、他にも自筆の書や絵画が残る。
義芳の弟2人は、富山・願海寺(24代・巧意 25代・巧海)へ続けて入寺した。

天保5年(1835年)、大風の中で大火に遭い、堂宇・宝物・過去帳などが悉く焼失。同年に再建したが、その後も「四朗七郎焼」や、当山の焼失が特に激しかった「御梅焼」等の大火に見舞われた。

嘉永6年(1853年)23代・義乗は本堂を再建するも、再び大火類焼により堂宇は建立と焼失を繰り返し、法物や道具が失われ、縁戚寺院から佛具等の提供を受けたりもした。度重なる大火類焼により次第に財政は疲弊し、以後荒廃の一途をたどった。境内地の大部分が売り払われ、焼け跡の境内地には一時的に小学校が設けられたりした。

廃仏毀釈の様相が激しくなった明治を迎え、24代・實乗、25代・真乗が若年で相次ぎ早世し、男性継職者を失う事態となり、26代・隆乗が高月・専称寺より養子として幼い頃から迎えられた。隆乗は後に奈良県吉野・願行寺に設けられた仏教学林真利教校にて教鞭をとったことから寺を空けがちにしていた。本願寺の諸高僧との交流もあったようである。最後の類焼以来44年後の大正13年(1924年)、一族一門積年の大願であった本堂・山門の再建を果たし90年余を経る。

昭和には、27代29代・真隆和上が活躍。
龍谷大学教授の後、顕真学苑を創設し学僧を多く輩出。本願寺執行(現総務)や勧学寮頭など西本願寺の要職を歴任し、昭和の西本願寺教団を支えた。23代・勝如門主より裏頭を授かった裏頭勧学である。これまで本願寺の歴史において、門主より裏頭を授かった僧侶は島地黙雷と梅原真隆の2人のみであり、宗門ではこの上ない名誉である。
宗門外では、参議院議員に当選し国政へ進出し、晩年は富山大学第3代学長を務めた。僧侶の枠に留まらず活動し、宗門内外の多くの要人と交流があった。
真隆も長く京都にあり寺を空けがちで、自坊の法務は寺中の発願寺と本行寺が勤めていた。戦後には鐘楼堂を再建、晩年に本堂裏に経蔵を建立。勲二等瑞宝章受章。(詳細は梅原真隆和上紹介ページ参照)
代の重複は、28代を譲った子・隆嗣の太平洋戦争戦死を受け、続けて29代を継職したためである。

28代・隆嗣は、東京帝国大学大学院を卒業後、難関であった朝日新聞論説委員試験に合格したが、間もなく軍に召集され幹部候補生試験に合格し、福島陸軍第2師団へ入営後は歩兵第29連隊の旗手を務めた。結婚・住職継職の後、幹部将校として太平洋戦争へ出征。インドネシア領ビアク島進出に伴い、飛行場設定部隊の支隊長としてヌンフォル島占領。1944年7月に米軍の攻撃を受け島南西のナンベル飛行場付近で戦死した。部隊はほぼ全滅したが、隆嗣の最後を見届け生還した将兵により、遺品とともに最後の様子が伝えられた。最終階級は陸軍大尉。

30代・隆章は、京都大学文学博士、富山大学名誉教授。 太平洋戦争末期、陸軍の召集を受け京都帝国大学を繰り上げ卒業となり、士官候補生として久留米第2陸軍予備士官学校を経て、本土決戦のために金沢師管で急造された第152師団輜重隊へ配属され、「はりつけ師団」として千葉県九十九里に展開し終戦を迎えた。最終階級は陸軍中尉。
兄・隆嗣の戦死を受け父・真隆の後を継ぎ、長年にわたり富山大学教授と住職を兼務。昭和末期には、本堂修繕・庫裏再建・境内地整備など自坊の大改修を行った。宗門では、自ら新設した滑川組の長として市内本派寺院をまとめ、教区では富山大空襲で焼失した富山西別院の再建に尽力した。宗門内外で講演する機会があったため、伝道院未修ながら本願寺より布教使免許が与えられた。
宗門外では、家永裁判(教科書裁判)において国側の証人として法廷に立ち、国側勝訴に貢献した。勲三等旭日中綬章受章。平成11年寂。
寺中・本行寺が当山門下より独立、後に廃寺となった。

31代・隆道は、父・隆章が大学教授と住職を兼務して多忙で、また病気がちであったため、代役として多くの法務を勤め、門徒との交流をより深いものとした。自身も僧侶の傍らで富山高等専門学校にて非常勤講師を務め、将来は助教授の道も開けていたが、寺の後継者であったので僧侶の道を歩んだ。歯に衣着せぬ説教でその印象が強かったため門徒の評価は分かれたが、常に物事の筋や道理をわきまえた姿勢を貫き、念佛の教えを説き続けた名物住職であった。
住職継職後、平成11年(1999年)真隆和上33回忌にあわせ滑川市立博物館で開催された「梅原真隆展」へ協賛。平成15年(2003年)西本願寺24代・即如門主滑川組御巡教の折、自坊を会場として帰敬式等を催行。平成27年(2015年)真隆和上の五拾回忌法要を勤め、境内に記念歌碑を建立した。宗門では長く富山教区会議員として、本願寺派富山教区の発展に尽力した。
晩年は、世相を慮り門徒からの浄財協力を仰がず自坊修繕をすすめ、各伽藍設備の維持向上を図り、総花梨鐘楼堂建立が最後の奉仕であった。平成29年12月寂。

現住職は第32代・隆超。寺中・発願寺(西方)とともに日々の法務を勤める。

以上のように、当山は越中富山において長い歴史を刻む古刹である。世襲で受け継がれる浄土真宗寺院としては、多くの代が重ねられる。

※当山の残存資料他を元にした調査・考察を含めて記載しております。